美術館の自発的隷従と限界芸術

「会田誠、東京都現代美術館による撤去要請の経緯明かす クレームは1件だった」

"現代美術家・会田誠さんが7月25日、東京都現代美術館(東京都江東区)で開催中の企画展で、会田さん一家が発表した「檄」という作品について、同館が会田さんに撤去などを要請したことを受けて、SNS「Tumblr」を更新。今回の経緯や、作品の制作意図を紹介し、撤去要請が不当であると訴えた。また市民からのクレームは1件であったことを明らかにした。(ソース:The Huffingpost 2015.7.25 )"

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/25/makoto-aida-geki_n_7870260.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

一 美術館の決定だけれど、日本における美術館(およびキュレーター)の自死を象徴するような出来事。権力に対しては何も異議申し立てをしない範囲での「表 現」が、日本では「アート」と呼ばれ、近年は観光政策の文脈にそってその延命を図っていたけれど、日本のアート業界がオリンピックという錦の旗印に織り込 まれているメッセージ(スポーツ=観光=放射能安全=軍事立国プロパガンダ)に自発的に恭順していくプロセスを目の当たりにしているかのよう。(エティエ ンヌ・ド・ラ・ボエシの自発的隷従論は組織論として見ると驚くほど理解できる)。世界に通用するキュレーターとか言っても、小役人的な発想なんだなぁ、 と。作品はネット経由の写真でしか見ていないけれど、政治的や過激というよりも、皮肉とパロディの掛け合わせと言うような印象。日本の美術館で芸術が見れ なくなる日がくるのだろうか。

けれど、先日旅立った鶴見俊輔氏が「限界芸術論」で語るように、芸術の根源的な経験の基層には、日々の暮らしの中で美的経験を感受し、記号/表現によって 伝達する市井のひとびとの主体的能力がある。それが非専門的芸術家が生産し、非専門的享受者によって受容される「限界芸術」の有する、権力や制度から外れ た所に置かれているがゆえに自律しうる芸術の豊穣さだ(これは作品の個々の質とは関係が無い、それはその質が生まれうる土壌のあり方だ)。なので、「思想 の科学」や「ベ平連」等、在野の思想と市民運動における仕事と同様、彼の芸術の可能性おける探求でも、崩壊しつつある制度とは別の場所、世界各地で生まれ つつある民衆の集合的表現の方に彼の「バトン」が渡され、引き継がれてくのだろうと思う。