香港屋上世界 (Hong Kong Rooftop) 01

晴れの日の香港は屋上日和だ。スカイクレーパーの銀色の壁に覆われた香港島側とは違って九龍半島エリアにはいまだ昔からの鉄筋アパート群が残っているところも多い。油麻地エリアは50年代のショップハウス(1階が店舗で2階以上が住居のビル)が多く、昔ながらの香港の街の風景を保っている数少ない下町だ。古いビルといっても5階建てから20階建て以上まで様々だし、幅も10mくらいしかないペンシルビル(でも10階建て)や、一区画をまるまる占拠している大きなアパートビルもある。「土地=富」の香港では最小の土地面積から最大の利益を生み出すためにどうしても建築は上に伸びてゆく。さらには、ビルの屋上にも小さな2階建てのビルが乗っかっていたり、トタンバラックで作られた「Rooftop Village」と呼ばれる屋上村も存在している。コンクリートビルの無数の集積体としての香港。今は無き九龍城もその巨大なボリュームを構成していたのは三百五十もの小さなペンシルビルの集合体だったという。香港に滞在して数日経つと、僕はこの人工建造物の圧縮空間から抜け出したいと体がむずむずしてくる。

そんなとき、僕はショップハウスの周囲をぐるぐると周りビルの屋上に上がるための階段を探し始める。住居エリアにつながる階段は一階の店と店の間にあるのだが、部外者が簡単に入り込まないように鉄製の門で閉じられている場合が多い。それでも鍵がかかっていなかったり、往来が多くあけっぱなしを見つけるとすっと足を踏み込んでみる。ただし内部が暗すぎたり、ピンク色の明かりで照らされているような階段は売春宿や麻薬窟だったりもする。部外者が物見遊山で入ってはいけない場所もここにはたくさんある。ビルの中はたいてい薄暗く、じめっとしていている。外界の空気の流れと遮断されたコンクリートの陰影の中を一歩一歩登ってゆく。できるだけ静かに、音を立てずに。

もちろん屋上にまでたどり着けないことやドアが閉まっているときもある。それでも、幸運にも屋上へとつながるドアを開けた瞬間、視界が急に広くなり、明るい屋上世界が眼前に現れる。四方にもっと高いビルがあるのだが、それでも屋上に立つ自分の真上を遮るものは何も無い。空からの光が直接降り注ぐ。風も気持ちがいい。頭そのものが軽くなったみたいだ。他に誰かいるかどうか確かめる。よし、ここは誰もいない。普段吸わない煙草の一本でも吸いたくなってくる。静かな光に満たされ、ぽっかりと空中に浮かんだ白い平面。隣の屋上にはトタンの小屋と小さな庭、犬、そして干された洗濯物が風にたなびいている。誰が住んでいるんだろう。

屋上には、この高層都市に張り巡らされた街路から溢れ出す人と物の巨大な渦から切り離された時間と空間がある。ここは都市のエアポケットであり、街のただ中にありながら、一瞬だけ群衆から離れ、自分だけの、もしくは親しい人との親密な時間に浸ることが許される場所だ。友人Fungと屋上に登ったとき、彼は屋上の思い出をこう話してくれた。「俺らが高校生の時は、よく自分や友達の家の屋上に上って学校をさぼって隠れてタバコをすったり、酒を飲んだりしていたよ。あ、あと恋人同士がこっそり会ったり。ある夜に、タバコみんなで吸ってたら、隣の屋上で男女が逢い引きしててね、それをみんなで覗いたりしてた(笑)。ほら、香港は家も狭いし、デートする場所もあんまりないんだよね。だから屋上ってわけ。あ、あと元々住んでいる人たちも多かったし。屋上は元々中国本土から密入国で入って来た人たちがバラックを建てて住み始めたのが始まりだから。今は違法になってしまったけれど、昔は簡単に屋上に家を建てることもできたんだ。屋上が一番家賃が安かったからね。エレベーターもなかったし。みんな貧しい人たちだったけれど。屋上村も昔は今よりずいぶん多かったなぁ」

僕が登ってきたビルの向かいにも同じ高さの屋上があり、向こうにもこちら側にも洗濯ものが干されていた。洗濯物を干しながら一息ついたりする主婦の人たちもいるんだろう。屋上からこの古いビル街を見まわしてみると、古いビルには屋上や外壁に木が生えているものが多いことに気がつく。最初は、鉢植えがあんなところに、くらいに思っていたけれどどうも様子が違う。よく見てみるとビルのコンクリートの壁面に直接根を張っている。あとでFungに聞くと「ビルのあちらこちら生えている草木は、もともと植物の種を食べた鳥たちのフンが落ちて、そこから生えてきたんだ」と教えてくれた。一度連れて行ってもらったビルの屋上には大きな木がどでんと一本生えていたけれど、それも元々は鳥が落とした糞から成長していったものだという。コンクリートジャングルのてっぺんに木が自生している。もし人間がいなくなれば、このコンクリートジャングルは近い将来屋上から再び野生化していくのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、人間の姿が消え、屋上という屋上に緑の密林を頂いたビル群と、そのビルの森から森へとさえずり飛びかう鳥たちの声だけが響く香港の街を屋上で独り思い浮かべてみた。