釜山 「韓国-日本 共同制作プログラム Plan Co」

先日、釜山で行われている「韓国-日本 共同制作プログラム Plan Co」内のフォーラムに招待してもらい、韓国の大学の先生、新聞記者、作家の方々とトークをする機会を頂いた(僕以外全員が韓国語を話せる方々だったのですが、通訳の方の流暢な日本語に助けてもらいました)。このフォーラムでは、「噂」というテーマを基に話して行くものだった。

福岡と釜山の両都市の人々にお互いの国の噂について尋ねて回った映像作品を見ながら、お互いの国の人々の「噂」がどう社会通念のように流通しているのか、そして「噂」のポジティブな面、ネガティヴな面について各パネリストの方からコメントをもらうという形式でした。映像で面白かったのが韓国の人が日本に関して「毎年、土地が沈降していていつかは海に沈んでしまう」という噂をほとんどみんな知っているということ。僕は初めて耳にした。あと、独島(竹島)の領土問題。これは小学生くらいの子でもそう発言するシーンが多かった。日本から韓国に対する噂は、どちらかというとメディアを通じたイメージの反復(K-pop、美人が多い、化粧品)か、食事について。ちょっとぼんやりしている感じ。

韓国では過去(日本植民地時代)の歴史教育への関心が高いが、日本は過去の歴史教育についての関心が高くないように思うがどうか、と他のパネリストから聞かれる。あと、韓国の中国文学研究者の方が「噂には誰が語ったのかという語りの主体なしに流通していく」という発言を聞いて関東大震災時の朝鮮人虐殺での官憲流言を思い出す(「9月、東京の路上で」を読んでおけばよかった、と後悔先に立たず)。

そう、「噂」は、聞きたいものが流通するが、聞きたくなないものは流通しないか、隠される。例えば、文化や芸術の領域では良い意味での聞きたい噂、「ベルリンが面白い」「北京のパンクスがいま熱い」等々が広まりやすい気もする。が、その一方で、やはり「噂」とはネガティヴなものではないか、と思った。

噂は、基本的にその話しの対象となる他者やモノが不在(もしくは語られる側が語り、拒否、修正する権利をはぎ取られた)のままに、語る主体が語られる対象について一方的に語り続け、対象とされた側は、そのように語られた存在として規定され続ける状況の流通をも意味している。また、その社会で噂が盛んになるのは、その社会の情報流通の透明性と相関関係にあるという指摘もなるほどと思った。他者に対する悪意ある噂が、ヘイトスピーチに一変する危険性を常に孕んでいるのは、昨今の日本の状況を見れば明かだ。

映像の中でインタビューを受けていた日本のおじいさんは、福岡が戦後すぐに引き上げ港だった時代に日本と韓国両国に帰っていった人々や、大浜には戦後すぐ朝鮮の人々の自治区があった(知らなかった!!)らしく、その人たちについての聞き取りをしていて、噂というよりもオーラルヒストリーとしてとても面白かったし、「日本についての噂は何ですか」と聞かれて、おばあさんが植民地時代に強制的に学ばされた日本の歌をニコニコと歌っていたシーンも印象的だった。韓国のパネリストの方の「これらは、大文字の歴史(権力者の歴史)から排除された民衆史であり、韓国のおばあさんの過去の苦難と今楽しそうに日本語の歌を歌う姿をどう考えていくのか」という言葉が印象に残っている。

僕は相変わらず設定されたテーマの周りを軌道衛星のように勝手にしゃべっていただけなのですが、何人かの韓国の方から「面白い話が 聞けてよかった」と言ってもらい少しほっとする。今度は、福岡で釜山の人たちとトークをすることができればいいな、と思う。こうやって、お互いの誤解や妄 想をも共有していくことができれば、「噂」が単なる妄想や、誤解、もしくは、ちょっぴり笑える事実だったりすることがお互い簡単に理解できて「な〜んだ、 あれは単なる噂だったのか」と笑い合える。

僕 は、中国や韓国の友人たちとお互いの国のステレオタイプなイメージ(例、日本人=真面目だが陰険、中国人=カネ大好き、韓国人=怒りやすい)について話し て、皆で笑うのが好きだ。そのとき、皆それは単純化されたイメージでしかなく、世界は個人はもっと複雑なのだという理解がお互いの内にあることを知ってい る。ひそひそと話されていた「噂」を開けっぴろげにして、共通のジョークとして笑える時、国家という時空間よりももっと広い、世界の「現在性」を共に生き ているのだと知ることができると思う。